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駐在員のパーティはどんな時に開く?

バティック 
      竹虎さんのホームページより画像拝借


世界中の大小様々な都市へ日本人が進出している。

日本企業のビジネスマンについては、大使、総領事、支店長などの
交代の時に顔合わせのためのパーティがある。

大抵はビジネス スーツでいいのだが、ジャカルタでは1980年代は、
男性はバティックの上着(襟付きのブラウス)が主流だった。

銀行は国内でもそうであるように、海外でも2年で交代する。

商社と銀行だけでも、しょっちゅうと言ってよいほど交代パーティが
あった。

勢い会うのはいつもの顔なじみで、わたしたちワイフはお喋りに花を
咲かせたものだ。

会場では名刺交換をし、前任者を褒め、これからの取引を願い、出身地
や、出身校で盛り上がる。

ジャカルタの支店長交代のパーティで、フィリピンからいらしていた
若王子さんに紹介され、お話をした1年後に、例の事件。

ある商社の奥さまが、「前任者にお世話になった、素晴らしい人だった、と
あまりにも言われると、気が重いのよ」と仲良くなったあとで聞いた。

ジャカルタを去って7年後にあるパーティに招ばれて行くことに。

当然の如くバティックを着用して行くと、夫だけだった。
もうビジネススーツのみの時代に入っていたらしい。

同様なことがLAでもあった。
日本に帰国して3年後に招待されたパーティに、夫はタキシードを
着ていった。

「あれ、今日は○○さんが表彰されるんですか?」と皮肉が。

LAでは交代パーティよりも基金集めのパーティに出席するほうが
多かったので、タキシードの出番ばかりだった。

それでも時代は簡素なほうへと変わっていったようだ。

ビジネス スーツであれば仕事が終わって着替える必要もない。

ヒューストンでも女性のドレスの丈がロングからだんだんと
短くなっていった。

ある商社の支店長交代のパーティで、社員の奥方は全員、持って
いる一番上等の和服を着てくるようにとのお達しが出たそうな。

わたしは2人の方の着付けを手伝いながら、支店長夫人の言葉を
噛み締めた。

一番上等とは分りやすく言えば訪問着を指していたのかもしれないが、
この種の話には尾ひれが付いて回るものだ。

35年も前の、駐在員夫人たちの苦労を想像してみてくださいませ。

字が読めるって幸せなことなのです

フルーツ マンギス
        マンギス (英名 mangosteen)


ジャカルタで雇っていたコキ(料理担当)のティニは文字の読み書きが
できなかった。

学校が遠かったのと人手が要ったので……と行けなかった理由を挙げる
より、一言で貧しかったからだ。

1980年代の半ば、彼女の田舎では、川原で石を一日中拾い集める仕事を
して何十円にしかならなかったという。

屋根の下の土間を右に台所、物置などに使い、左側が寝るところ。

ここに両親、子供5人、年寄りもいたかもしれない。

そこで友人や親類を頼って雇用のあるジャカルタへと働きに出る。

ウチには日本の食材を売っている店から御用聞きが来ていた。

ティニに注文品をあれこれ20近く伝えてもメモをしない。

それぞれに個数がついているにもかかわらず、全て暗記する。

6歳下の妹のヤムは、小学校はかつかつ出たようだ。

ある日、庭の隅でヤムが包装紙として使われた新聞紙の皺を
伸ばして読んでいるのを見かけた。

わたしは書店で「大草原の小さな家」のインドネシア語判を買って
ヤムに渡した。 そのときの彼女の顔の輝いたこと!

日本に帰国するまでに20冊は越えていただろうか。

「スラバヤにあるブロモ山に登ると、星がこの辺に」
とわたしが身振りで話していると、ヤムが眼を丸くして聞いた。
「取れるんですか」と。

戸口に立つ偽者の物乞いや不正請求する詐欺まがいの人たちから、
わたしたちを守ってくれたのも彼女たちである。

日本の識字率は世界一だと聞いている。

良書に接し、字を書く行為を忘れないようにしましょう。


留学生は友好の架け橋に

ランブータン インドネシア
        ランブータン


ジャカルタは季節でいえば一年中夏。

どの写真を見ても夏服しか着ていないので、思い出が定かに
繋がらない。

雨季と乾季があり、土地の人は何の果物が実るのかを見て
季節を感じるのだそうだ。

総人口は2.1億人。ほんの4%の華僑が経済の8割を掌握。

300年以上もオランダの統治下にあり、第二次大戦後、独立。

1954年(昭和29)、日本政府が国費外国人留学制度を発足し、
インドネシアから29人の留学生がやって来た。

お国を出るとき日本女性を嫁に連れて帰れ、とのお達しがあったとか、ないとか。

結婚してインドネシアに来ていた日本女性を3人知っているが、
みなさん、すこぶるつきの美人だった。

彼の地の人たちは肌の色がダークなせいか、色の白い日本人は
憧れのようだ。

夜子供たちのテニス レッスンを見ていたとき、たまたま停電した。

すると、どこからともなく手が出てきてわたしの腕に触った。

暇そうな男の人もいっぱいいるし、ボールボーイも5,6人はいる。

「キャー」と声が出たわたしは、電気が点いたときに、ただ誰となく
睨むしかなかった。

日本に留学した人たちは帰国後、政府関係の仕事に就き、やがて高官と
なった人が多い。

日本に滞在して日本贔屓になって帰ってもらいましょう。

民族の違いや異文化、言葉の壁も、心さえ通いあえば人となりくらいは
分かり合えるはずです。


余談 
 戦後米軍が進駐軍として日本に来る時、本国から日本女性と結婚しない
 ようにとの命令が出ていたと聞いたが……。

 まことに物議をかもす噂ですこと。


ジャカルタの女中物語 序章

目白クラブ 黄の花



ジャカルタに滞在中は料理担当と掃除などの雑用係の2人の女中がいた。

女中と書くととっても抵抗があるが、この言葉をメイドやお手伝いさんに
替えたとしても、内容は同じである。 (差別意識はありません)

彼女たちの存在がなければインドネシアでの生活は成り立たない。

田舎から出稼ぎに来る彼女たちを雇用するのも、彼の地の経済に貢献していた
ことになる。

うちは家庭車の運転手には手を焼いたが、女中には恵まれた。

料理人のカルティニは通称、ティニといい、19歳だった。

料理人と名乗っても、わたしたちがイメージするコックではなく、日本人の家庭
にいれば、命じられた日本のお惣菜くらいはできる、といった程度である。

地方の貧しい家から都会に出てきて、先ずは雑用係として就職し、先輩たちから
インドネシア語を覚える。

耳から覚え、文法などお構いなし、しかもインドネシア語は簡単にできているので
生活に困らない程度であれば、すぐマスターできる。

そんな彼女たちから、女主人であるわたしはインドネシア語を覚えるのだ。

「台所言葉」と言われるとおり、程度はもしかしてひどいものだったのでは?

交流のあるインドネシア人はみんな英語を使っていたのでよかったが……。

掃除係が辞めたときにティニが言った。

「奥さま、チュチ(掃除、雑用係)に妹を雇っていただきたいのですが」

聞けば我が家の次女、中学3年生より一つ下だという。

田舎から出てきて1年足らず。 近所で働いているが、先輩に恵まれないらしい。

姉としては一緒に働ければの願望があるのだ。

「でも、歳がねぇ、、、 可哀そうじゃないの」

同じ年頃の娘が、これまた同じ屋根の下で暮らす。 一方はお嬢さまで、片方は
女中とは、わたしの平等意識が否定の反応をする。

これに眼を見張って驚いたのはティニのほうだった。

職場と割り切っているので、わたしの中途半端な考えのほうが常識はずれで、
結局雇うことに。

他所で働いている兄が寝場所として入り口の、運転手の控え所である板敷き
の上でもいいからと住むことになり、こちらも夜警になると考えて了承。

都合3人の身内がうちで働いた。 兄のほうは給料を払う必要なしで。

この3人が親孝行で、他の兄弟たちと力を合わせ、遂には田舎に家を建てて
あげるまでに。

文化、習慣、民族意識の違いから、悲喜交々のエピソードが生まれた。

追々書いてゆきたいと思っている。


観光地での適正価格

バリ
    インドネシアで最もポピュラーな花


今年の夏は暑い!

南国ジャカルタに住んでいたがこれほどではなかった。
年間の平均気温が27度、湿度70%、日本の夏よりは凌ぎやすい。

日本人に人気の高いバリ島でのこと。
観光客ずれしている店の人たちは応対もよくない。
付けられている値段も10倍。
ここから交渉に入る。

ジャカルタでの値段を知っている私が値切り始めると、いきなり小母さんは
店の前に飛び出して言った。
「この奥さんは煩く値切るよ。相手にしては駄目だ」

日本からの知人のために値切っていたときは、彼女が宣(のたま)ふた。
「いいじゃない。もう充分安いわ」と。
これが観光地の商人を甘やかすことになる。

山の上をドライブの途中、一人の若者が木彫りの人形を袋に入れて売っていた。
この人から買ってあげようと、少しは仏心を抱いて交渉。
折り合いが着き、紙に包んでもらって車に。
あとで開いてみると、似てはいるが違うものが。
財布の中を見ている間にうまく品物を擦りかえられたらしい。

参考までにジャカルタで聞いた話。
ジャカルタでは白人には5倍、日本人には3倍の値をつけていると。

裕福な中国系インドネシア人の友人と買い物に行ったとき、彼女は
気の毒になるくらい高飛車に値切る。
そして成功するのだ。

適正価格ってなんだろう?

               以上 1985年頃のインドネシアでの出来事


プロフィール

白秋マダム

Author:白秋マダム
 
海外生活17年間の思い出と、
時事雑感、日々の暮しについて
エッセイを書いています。

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