買い被られて……

メジャ テ



鉄面皮イブ所有の古い家を脱して、新居へと越した。 (1985年)

ジャカルタの家は10年すると建て替えると聞いたが、それほどではないにしても、
雨の多い、暑い国では近代建築で使用するセメントは耐用年数が短いのかも。

今度の家は全室、カーテンは白のブロード地、周りに幅広のレースをあしらった。
一般的なレースとドレープとのダブル使いにせず、プレーンに一枚だけに。

大家さんの片腕である、お嬢さんのエリーさんは、このカーテンでも驚いていた。

なにしろ大家さんがカーテン代も払うといっているのに、わたしの選んだのは安い
料金で済んだのだから。

その後、銀行の支店長夫人と大使館勤務している方の奥さまだという日本女性が
エリーさんに連れられて我が家を見に来た。 

どちらも契約が決まったそうだ。

その年のクリスマス。
写真の メジャ テ(お茶用テーブル)にリボンがつけられて大家さんから届いた。

楕円形の回りはぐるりとガラス。
この上でお茶の用意をしてサービス、上部はお盆となって取り外せる。 

下部にはお茶に必要なものを収納。 オランダの家具のレプリカらしい。

この家具の上に、小さな包みが3個入っているバスケットがあった。

家具だけで興奮していたわたしたちは、形からしてバスケットの中身は石鹸だと
思っていた。
  (このあたり、バランスのとれた庶民感覚が働いているのだと思いません?)

しばらくして中を開けてみて、仰け反らんばかりに驚いた。

中にはダイアモンドのブレスレットが……!!!

ママ用にはびっしりと、中学生と高校生の娘たちにはやや控えめに。

ウチが契約をしてからビジネスが順調にゆき、日本人の好みも分かったとかで、
大家さん一族ではわたしのことを「福の神」といっているとか。

3年分の家賃が一括前払い、土地さえ手に入れれば建築はお手のものだったのだ。

大家さんは建設業、エリーさんはオーストラリアの大学で土木の勉強をし、修士課程
まで修めた才媛。

その後も大きな ゲイティッド コミュニティ を開発し、そこで使えるいろんな施設の
カードが届いた。 番号には NO1 の文字が。

帰国までの3回のクリスマスはダイアモンド攻勢だった。

中国の習慣だからと言って、わたしの辞退を退けていたエリーさん。

わたしのインテリアのアイディアを生かして成功したのだからと。

わたしたちがジャカルタを去るころには借家が200軒、7年後に旅行で彼女に会った
ときには、500軒を越えているといっていた。

   余談
    こんな彼女にわたしが悩んだのはお土産。
    
    日本に一時帰国したり、日本に彼女が来たときなど品選びが大変だった。

対等にお付き合いするつもりはなかったけれど、答礼ということもありますし、ね。




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個人レッスンを受けてはみたが、

社交ダンス
      image from City Academy web site


暑い毎日、退屈な毎日、閉じこもりの毎日のジャカルタで。

運動不足解消のため、友人に紹介された社交ダンスの先生に付くことに。

5人集まれば自宅での出張レッスンが可能だと。

かくして1週間の一日、5時間、我が家ではダンスミュージックが鳴り響くことに。

英語では ballroom dance という。
舞踏室という意味と、ホールにミラーボールがあったからという説もある。

先生は中国系で、以前インドネシア代表で世界大会にも出場したという経歴の持ち主。

習うのはフォックストロット、ルンバ、ジャイヴ、マンボ、ワルツにタンゴ。

テープに録音された音楽に合わせて踊る。 いつも同じ曲で。

ルンバなどは曲のある部分を聞いただけで身体の動きが決まるほど全く同じ動作。

わたしは先生との相性がイマイチで、レッスンが始まって10分くらいは暗い気持。
やがてダンスの波に乗ると何もかも忘れて踊れた。

今度はタンゴと言われたときは丁重にお断りをした。
密着度の高いダンスは受け入れられなかったからである。

一番好きだったのはワルツ。 踊っていて楽しかったのはジャイヴ。

2年余り、毎週というわけにはいかなかったが、レッスンを受け、日本へと帰国。

日本でも個人レッスンを受けてみることに。

なんとなんと、散々でした。
  手の位置がよくない、姿勢が悪い。 
  言外に、ほんとうに個人レッスンを取っていたのか? のムードあり。

テープで掛っていた曲以外では踊れない。
もちろんリード次第で身体はついてゆくが……。

何だったの? わたしが費やした時間は何だったの? もちろんお金もね。

わたしが出かけるところではダンスにはご縁はないし、あってもお付き合いダンス
だから、と潔くやめることにした。

この長い経緯を語らずして、ダンスを習っていましたとは言いたくない。

「ダンス? わたくしは踊れませんの」で通しています。 




捨てられたコリー犬

コリー
      画像拝借 4才の迷子犬だそうです


ジャカルタでの思い出。
写真のコリーとよく似た、もう少し顔の周りが薄い色の迷子犬の話。

スクールバスで帰宅する娘たちが息急き切って戻ってきた。
「お母さん、犬が、コリーがね、迷子か捨てられたか……」
「みんなに石を投げられて動けないの」
窓から犬が苛められているのを見て、堪らなくなったようだ。

彼女たちの言いたいことは、お仕舞まで聞かずとも判る。

「すぐ行ってきなさい。ベチャ(自転車の前に二人乗りの椅子がある
一種のタクシー)で連れて帰って」

さては昔テレビ番組で観た「名犬ラッシー」のようなことが、その犬に
起きているのかもしれない。

空腹の可能性もあるのでパンとミルクを用意し、ベチャ用の小銭も持たせた。

コリーは後ろ足が立たない、腰が抜けたような状態だった。
とにかく汚く、目はとろんとして虚ろ。
怪我をし、あちらこちら毛も剥げていた。

イスラム教徒は邪悪なものとして犬を嫌う。
特に唾液に触れてはいけないそうだ。 犬の濡れた鼻もNO。

コリーの大きさに怖気て、みんなして石を投げて追い払っていたものか。

早速獣医に診てもらう。
「栄養をつけて日光にあて、愛情を注げば元気になりますよ」
名前はすぐに付けたほうがいいと言われ、獣医師の提案で「ボビー」と
決めた。

腰を落とした状態で歩き、足も引きずるような痛々しさ。

それでも3週間もすると少しだけ走れるようになった。

賢そうな顔をし威厳もある。
助けてもらった恩を感じているようですらあった。

使用人たちは怖がって餌やりもままならない。
イスラム教徒にも犬に対して個人差があるようで、ウチでは飼うのは
難しかった。

ジャパンクラブに写真入りで張り紙を出し、犬のもらい手を捜す。

反応はすぐあった。

ひとつは、この犬は自分の家の前に住んでいたマレーシア人が、帰国の際
捨てていった犬ではないかとの情報。

次はインドネシア人と結婚している日本女性からで、コリーが前から
ほしかったとの連絡。

名前もボビーのままで飼ってもらうことに。
ご主人が動物好きで、会いに行くと見違えるほど立派になっていた。

毎日ビタミン剤をやっているとも聞いた。

ボビーが取り持つ縁で、この家族とは楽しいお付き合いが始まり、
ご夫妻にはいろいろと教えていただき、どんなに助かったことか。

「情けは人の為ならず」でございます。




トランプ占いで得た安心感

ヤツデ
      八手が繰り広げる cosmos


海外赴任に伴う家族の悩みは任期である。

次女の高校受験を考えると、帰国の時期が問題。
すでに3年は経っていたし、ちらほらと出張者から噂も出ていた。

もし夫の任期が早まれば、日本の高校を受験する。
帰国子女の編入はなかなか思うようにはいかないからだ。
この場合、夫を残して家族は先に帰るか、あるいは寮のある高校へ入る。

あと3年間の在住が保証されればジャカルタにある インターナショナルスクール
に入れる。(日本人学校は中学までだった)

ある日、インドネシア人と結婚している日本人の友人とのお喋りのとき彼女に
悩んでいるのだと話した。
「とてもよく当る占いをする人を知っているのよ。行ってみる?」
 
長女と共に連れて行かれたのがトランプで占う小母さんの家。
薄暗い、全く普通の家に住む、60歳くらいの中国系のクリスチャン。

当らなくて元々。 これも経験のうち。
正直半信半疑よりも、ほぼ疑っていた。 ただ友人を信じていただけ。
  
椅子に向き合って座る。 どんな用事で来たのかも名前も告げなかった。

縁の擦り切れた古いトランプを並べる、あるいはめくる。

「身内の方が亡くなりましたね」
「いいえ」 ほら、当らなかった。

「夫の任期を知りたいのです」
「それより部下の人のほうが日本へ帰りますよ」
  急だったが、予告どおり帰国となった。

「おや、お嬢さんは近々日本へ行くと出ていますが」 
  夏休みで一時帰国をする予定だった。

「気をつけなさい。物を盗られるとあります」
「気をつければ防げるのですか」
  用心するだけで被害が少なくて済むかもしれないと。
  いつも用心は怠りないわたし。 盗難にあったのは女中のほうだった。

帰宅したあとで日本の母から手紙が届く。
叔父が亡くなったので一応報せておくと。

他の話もすべて当った。
 
彼女は不思議な能力を持っていて、トランプを通して何かが見えているらしい。

物見高さと経験にと訪問したのに、とっても大きな安心感をもらった。

そもそもの原因の次女は総合判断から、日本の高校を受験する運びに。

疑問
 未来を予測し、危険回避や軽減が可能だとすれば、未来そのものを変えられるのか。

 では、いま現在見えている未来とは何なのか。
 彼女は 星の動きが変わる と言ったが、努力をすれば変わるのか。
 
 通訳を通しての込み入った会話はもどかしく、疑問は疑問のままに……。

案内してくれた友人が打ち合わせをしていたかもしれないですって?
  1週間後、わたしの話を聞いた日本人の友人が帰国を前にして行きたいと言った。
  二人で出かけたが、こちらもすべて当った。

世の中には、数学や科学では説明のつかない不思議なことはあるのだ。
わたしは自分のことを一切話さなかったし、トランプにも触らなかった。

占い師(この言葉で形容されるのは彼女にとって不本意かもしれないが)へのお礼は
日本円にして600円。 それもいくらでもよいと言われて、友人から聞いた相場を。

問題の次女はICU(国際キリスト教大学)高校へ入学し、寮生活を送った。




若気の至りでは済まされませんよ

バンドン
      image from National Geographic  1971年のバンドン


ジャカルタにいたとき、あるアメリカの大会社に勤めていた方と友人を介して
お知り合いになった。

近くの島に遊びに行ったとき、多忙を極める彼はヘリコプターで駆けつけた。

お嬢さんの誕生日パーティも、奥さまがセッティングして大学生が立錐の余地もない
ほど集まり、見るからにアメリカナイズされた家庭だった。

インドネシア人としては成功者であり、恵まれていたと思う。
ところがある日、彼は失脚し、職を失うことに。

原因は1960年代に巻き起こった学生運動にあったらしい。
彼はバンドン工科大学の学生でデモにも加わっていた。

スカルノが政変でスハルトに代わり、共産党とその支持者たちが徹底的に弾圧された
ときには、ご主人は問題なかった。

そのころは密告者が相次ぎ、報道写真などからも摘発されたという。

時は流れ、成功者になった彼は、人生の最も充実期に入ったころになって密告された。
友人は嫉妬からだろうと言っていたが。

韓国の386世代と呼ばれる人たち、中国の天安門事件に関わった人たちも
いつの日か、世の中が変わったときに足をすくわれるかもしれない。

デモンストレーションという方法で主義主張を訴えるのはいいが、決して軽い気持で
流されて参加してはならない。


ましてや烏合の衆となって暴徒化し狼藉を働くなど以ての外である。

写真や動画に記録され保存される時代、カメラの性能は抜群ですから。




新居探し! 50軒ですよ

の道路ジャカルタ 住宅街
       

ジャカルタで引っ越すことに決まった。 決めたのだ。

日本人女性の不動産やさんを紹介してもらう。
インドネシア人と結婚している、この人も美人。
  (何故か、わたしの知る限り、みなさんお美しい)

条件を提示した後はひたすら巡り歩く。
 ちょっと暗いわ
 家具が薄汚いし、、、
 お隣近所の治安が悪そう
 学校まで少し遠いかしら

門の前までで引き返すこともしょっちゅう。
こんなことを考えているうちに、またたく間に50軒も見て回った。

「気にしない、気にしない、100軒当った人もいるから」と慰めてくれる。

一軒気に入ったのがあった。
家は気に入ったが家賃が合わない。 落胆しているわたしのために交渉してくれた。

不動産やの彼女曰く、
「エリーさん(大家さんの娘で営業をしている。仮名)が、たくさん家を見に来る
人はいるが、みんな不足ばかりを並べ立てる。彼女は(わたくし)この家をとても
気に入ってくれた。そういう人に貸したいのだ、と言ったのよ」

そしてこうも付け加えたという。
儲かる家ばかりじゃない。損をする家があってもいいのだと。

大家さんはもともと建設業で外国人相手の賃貸住宅に手を染め始めたばかりの
ころだった。 この家で借家は6軒目だと。
しかも家賃もこれでいいと言っていた人を断って、わたしと交渉に入る。

金額を落としてもらった上で、こちらも会社と交渉し、3年分の前払いを5年契約の
前払いということで話は纏まった。

床壁天井があるのみ、次の段階で、わたしの希望通りの建具が入る。
カーテン、家具、照明器具まですべてわたしの選んだもので揃えてもらった。
買い物にもエリーさんと二人で行った。

希望には制限はつかず、こちらが制御するほどである。

あとで聞けば、普通は多少の希望は入れてもらえるらしいが、これは異例のこと
だったようだ。

どうしてそこまでしてもらえたのか。
エリーさんにも考えるところがあったのである。


6歳くらい年下のエリーさんとわたしは友人といえる仲になっていった。 
                              ―つづく―



愚痴ですけれど、ちょっと一言

ポンドックインダー
       ポンドックインダーの豪邸 (ウエブより画像拝借)


ジャカルタに住んで1年半、引越しを決断。
これを機に知らされていなかった事実が判明!!

不満のある現状を訴えても会社はピンと来ない。
知人の協力を得て、10社くらいだったか、月収から会社支給の明細の一覧表を
作成して提出。 内助の功を発揮しました。
会社の実名を明記しての報告書の効果はあった。

以下、1985年当時のインドネシアの駐在員事情を書いてみたい。

外国人相手の家賃の高さは欧米並み。 
光熱費は日本の10倍。
車はカローラが430万円もした。
日本人学校は私立で、入学金から授業料も取られる。

上記したものをほとんどの日本の会社は、会社が負担していた。

わが社は(夫が所有している会社ではありません)すべてを個人払いとして、
給料に組み込まれていた。
給料の額が跳ね上がるのは当然でしょう。 それを給料が高いだなんて。

最初に事務所をオープンした人が決めたものであろうか。
10年経っても額面は同じ。
依然会社は世界一優遇されている駐在地だと思い込んでいた。

家庭車も、普通は会社の車のお下がりを社員の家庭2軒でシェアし、運転手や
ガソリン代も会社持ち。

ここからは共通事項であるが、
使用人は必要なかろうとも雇わなければならない。
日本食は高い。
子供たちが通う塾もあったがン万円。

おまけに給料は現地貨払いで、年々目減りしていた。

写真のような家に住んでいる駐在員もいたが、ウチは惨めなことこの上ない
家だった。 インテリアに関心のあるわたしには夢も希望もない家である。

家庭車も帰国の際は買った値段で売れるからと新車を……。
もちろん社会情勢が変わったのか、4年後には1/3でしか売れなかったが。

カローラが430万円ですって?!
ちょっと――、ベンツとまではいかなくとも高級車が買えるでしょ。

会社に借入金の手続きをし、なんとかジャカルタ生活はスタートした。

子供たちに塾を断念させ、受験前の数ヶ月だけは情報を得るためにやむを得ず
行かせたが、問題集を与えることで乗り切った。

わたしは友人と楽しい時間を過ごす以外は家に篭りっきりで、やがて読書三昧の
日々を送ることになる。

どちらの奥さまもお稽古事に熱心だったというのに……。
                            ―つづく―




インドネシアのイブは貫禄充分

flame tree
        火焔樹 flame tree


1984年2月、ジャカルタに住むことに。

車が着いた先は……、想像と現実のギャップに愕然とした。

運転手と女中が2人もいて、門構えに高い塀のある家だと聞いていた。
だれが日本の普通の、自分の家より shabby な家を想い描くものか。

それでなくても、モアモアと暑い国である、夢は一気にしぼんでしまった。

半年近く先に赴任していた夫は身体がすっかり夏向きになっていた。
わたしたちが扇風機をつけると寒いと言って譲らない。
  
寝苦しい夜は腹立たしくさえなってくる。
夏祭りでもらった団扇、しかも1本を娘と3人で取り合う。

団扇に書かれていた「祭り」の字が恨めしく思えた、「なにも楽しくなんか
ないわよ」と。
やがて、あおぎ過ぎた団扇は見るも無残に骨まで見える状態になってゆく……。

そして1年が過ぎ、家の契約更新の時期が来た。

雨漏りは10箇所にも及ぶ、大きな鼠は出る、貯水槽を覗いて卒倒しそうになる。
よかったのは庭に大きな火焔樹があったことぐらい。

絶対に引っ越す、とうぜんよ!
この勢いでいたが、会社はこのまま、、、と言ってくる。

3年契約で、全額一括払い。
それなら改善してもらう条件を呑んでもらいましょう。

やってきた大家さんはイブ。
お母さんという意味のほかに、どっしり構えた小母さんのニュアンスもある。

女中たちはイブの貫禄にオタオタ。
大きな地声で話すイブはわたしよりは10歳くらい上であろうか。

意気込みだけは充分のわたしだったが、なにぶん会話ができない。
たぶん幼稚園生のようなものだったのではないか。

動じないイブの前で、不覚にも涙がこぼれた。

「なぁに、このニョニャ(奥さん)は子供みたいに泣いて」と笑う。

そうだ、敵はイブではない、会社だ、夫だと悟る。

かくしてめでたく、わたしの家探しが始まるのである。 
                        ―つづく―  
 

運転手に苦労したジャカルタ

鳥の店インドネシア 
         道端で鳥を売っている



インドネシアでの憂鬱な思い出に家庭車の運転手とのトラブルがある。

ジャカルタでは「目には目を、歯には歯を」の精神で、車に轢かれると、相手を
轢き返してもよいといった風潮があるらしい。
       (イスラム教の教えではないとのこと)

一定期間だけ在住する外国人たちで自ら運転する人はなく、我が家にも会社用と
家庭車用に運転手がいた。

会社の運転手のほうが格も上で、給金も高い。 
家庭車の運転手は会社用になるのが夢であり、目的だった。

我が家での運転手奮闘記

  1・爬虫類を連想するような人
   女中たちの浴室でマンディ(水浴び)をする
   待機中に家に帰り、レストランから出てきたわたしたちを1時間も
   待たせた (一度だけではなかった)
     ルール違反もはなはだしく辞めさせる

  2・紳士的で感じのよい人
   停車中に物乞いが来ると、よく小銭をやっていた
   彼は一身上の都合で辞職

  3・いかにもお人よしそうだった人
   彼で落ち着けるかと思いきや、サイドミラーをぶつける、ひやりと
   何度もさせられる 
   女中曰く、お金で免許証を買った初心者であると

  4・元警官だった人
   なんと心強い人かとありがたく使っていた
   ある日、子供が入院するので勤められなくなったと言ってきた
   何とか交渉をするも断念
   退職金は出せないが、見舞金としてかなりの額を包んだ

   次の運転手を雇用しているにも拘らず、彼が再就職を願い出てきた
   「一方的に辞めさせられたのだ」とは彼の言い分

   時には彼と電話で30分も争った 
   非協力的な夫が、わたしのインドネシア語が上達したものだとからかう

   大家さんの協力も空しく、またお金をせびり取られた

   わたしの想像と分析
     他所の家の運転手の口で、よりよい話があった
     話が壊れたか、勤めてみて解雇になったか辞職した

  5・①と③を混ぜたような人

  6・真面目で忠実な人
   困っているのを見かねた友人が言った
   「日本人が習慣も解らず使用人を駄目にしてしまうのよ。日本人の間を
   渡り歩いている人はスレてしまって……」
   
   オーストラリア人の家で運転手をしていたヤントを引き抜いてくれることに

   彼女の家で、子供だったヤントをボーイとして使い、成人してから
   運転免許を取らせて、社会に送り出したという
   もちろんご主人が運転の仕方をみっちり教え込んだと聞いた

   「辞める理由もない人を引き抜くわけだから、給料は今よりは上乗せ
   してやってね」という彼女の言葉を呑んだのは当然だった


 後日談
  ジャカルタを去る日が近い頃、日本の製薬会社のトップの方が我が家に夕食に。

  話題は後で来る家族の家庭車の運転手。 みなさん一様に悩むところだから。

  是非譲ってほしいと言われ、ヤントの就職先は決まり。

  しかも、その方が日本に帰国される際に、ヤントは会社の運転手に昇格。


給料を手渡すときに、ひざまづき、左手を右手に添えながら受け取っていた
ヤントの姿を思い出す。 そんな人は一人もいなかった。

教育の大切さと、重さを考えさせられます。


                   上記の話は1984-1988



   

ジャカルタ 物売りの音


         papaya


早朝コーランの読誦がスピーカーから流れてくる。

目が覚めない日もあるので、慣れてくると気にもならないのか。

やがて鳥の鳴き声に代り、物売りたちの声が被さってくる。

マッホ、マッホ

ポクポクポク、、、何かを叩く音

年中夏だとはいえ、日本の真夏よりは凌ぎやすい。

一日の始まりは外部からもたらされ、家の中にもあわただしさが家族を急き立てる。

インドネシア人には物売りの音で何を売っているのか分るらしいが、わたしたちは外に
出て見るわけでもなく、最後までマッホは何か解らなかった。

物売りは、ラーメン、靴修理、箒などの生活雑貨、食品などなど。

通りには屋台があり、タバコや飲み物も売っている。

使用人たちは、こうしたところから買っていた。

 (日本でもかつて、アイスキャンデー、魚、豆腐、パン屋も行商していた)

車の騒音もなく、物売りの音や一日何度も流れるコーランに海外に
住んでいる実感が沸く。

日本の正月に当るレバランには物売りたちが故郷に帰るので町は静かになる。

    レバランや 物売りはみな ふるさとへ  と俳句でもひねって

朝夕のほっとするひと時、日中のモワッとする暑さ……。

年中夏服で過ごし、バナナはただ同然の価格、パパイアは種を口から吹き出し、
地面に落ちただけで芽が出、成長は早く、すぐ食べられる。

毎日やってくるスコール。 身体に石鹸をつけて雨を待つとも聞いた。

家のない人が墓石の上で寝ているのを車から見たこともある。

決して裕福でない人たちの穏やかな顔には反省させられるものがあった。

聞き耳を立てていたわけではないが、自然と耳に入ってきていた諸々の音たち。 

わたしのジャカルタ生活の一部になっていた。






プロフィール

白秋マダム

Author:白秋マダム
 
海外生活17年間の思い出と、
時事雑感、日々の暮しについて
エッセイを書いています。

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