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韓国の「楽古齋」に泊まる




未踏の地だった韓国へ行った。

近くて遠い国、行きたいと思ってから叶うまで3年間。

メンバーは二人の娘と二人の孫ともちろん夫と全員で6人。




夫のペースに合わせ、子供たちに付き添いの同行を願った。

企画はわたしで、韓国という場所へ行くだけでいい、観光をしなくてもいい、と。

探していると 北村 という伝統家屋のある場所にゲストハウスを見つけた。

北村とは世界遺産チャンドックン(昌徳宮)とギョンボックン(景福宮)の間にある町々のことで、

両宮殿の間にある地域と言う理由から朝鮮時代の高級官僚が沢山住んでいたという。




予約でいっぱいで困っていると、別館でよかったらとのこと。

仮に本館よりは程度が落ちるとしても、日程の都合がつかないので了承。




いよいよ憧れの 「楽古齋」(らっこじぇ) に泊まることに。

楽古齋とは韓屋内部を美しい調和で織り成し、韓国の伝統文化と料理を体験できる

民宿風の宿。


ラッコジェ


本館の吹き抜けの板の間で食事をした。

そこから目に映るものを撮影。

この家には門が3箇所あり、どれがどういった目的の門なのか・・・

この門が一番立派だというわけではない。


ラッコジェ2


板の間から見た反対側の景色。

使用されている門はこの左手にある。

この大きなカメがほしい!


建具デザイン


建具のデザインと細工が素晴らしい。

家の外に向いてこのような建具が建てられていたりもする。

雨風は大丈夫なのか、お掃除は大変だろうに、などと主婦の感想。


瓦


廃棄された瓦を積み上げて庭のオブジェに。

笹が趣を添えて。


土壁


こちらも廃物利用で瓦を土壁に埋めている。

この塀は京都でも見かけた。


竈


薪を燃してお湯を沸かしている。

薄く煙が立ち上り、懐かしいにおいが……。

実用というよりはムード作りのためらしい。


小学校の塀


宿へは大通りから入って小学校の横を通り過ぎて行く。

この塀は小学校の楽しい壁。

片方にはいろんな絵が描かれている。




韓国人は背格好や顔に違和感がなく街も日本と同じでほっとする。

印象的なことをアップしていく予定です。





ベトナム女性のファンです

アオザイ
    Schutt mania さまのブログより画像拝借  白いアオザイは正装





写真は民族衣装のアオザイを着ている女性たち。

たぶん高校生か大学生くらいの若さで、彼女たちのあまりの清楚さに画像を使わせて

いただいた。



 1990年
  
    ベトナムに出張した夫が帰るなり、ベトナム女性は世界一だといった。

    まだまだ発展途上にある国の人たちは謙虚で、西洋かぶれせず、

    殿方は女性の理想像を重ねているのかもしれない。




夫の失敗談 

ホテルで雑多なものと1000ドル以上の現金が入った封筒を置いたまま部屋を出た。

午後気がついてホテルに戻ると清掃は済んでいて、封筒の位置もずれていた。

後悔しながら開けてみると、中身はそのままだった

感激したことはいうまでもない。




すぐフロントに行き、掃除の担当者は誰かと聞くと、

「何か不都合なことでもございましたか」の返事。

事情を話して、呼んでもらった彼女に20ドルのチップをあげたそう。



この後、夫はどこででも誰にでも ベトナム女性は世界一 だと触れて回る。

「ご主人、ベトナムで何かいいことがあったんじゃないんですか」と

変に勘ぐられるしまつ。







先日某デパートのベトナムレストランへ行った。

なにしろ夫のベトナム贔屓は相変らずで、また旅行に行く計画中である。

案内する人はベトナム人らしく、イントネーションがちょっと……。




ウエイターは色白の優しそうな人で韓流スターのようにいい感じ。

注文をした後で、「美味しく作ってね」とわたし。

「はい、畏まりました」とちょっと訛りを感じさせる日本語で。




見かけも味もとてもよかった。

フォーが少し柔らかく思ったが、本場のものを知らないので、分からない。

下げに来た彼に、とても美味しかったと告げると、

「美味しく作りました」って。




レヂで支払いをしているとき、ふと彼の名札を見たら日本語!!

驚くわたしに、「よく言われます。なぜか発音も悪いようで、、、、」。




これだけでその日も、いえ、ずっと後々まで楽しい気分でいられるのだから

儲けものでしょ?!




5回訪れていろんな物を買ってきたが、驚いたのはサファリ帽。

でもわたしのお気に入りのものもあった。


ベトナム土産


漆の板に貝の象嵌   40x60センチ





  余談:夫がベトナムに行ったころ、ホーチミンには外国人が泊まれるホテルは
   
      ひとつだけしかなかった。
 
      しかもそれはメコン川に浮かぶ船だったそうである。(オーストラリア製)






中国生れ、上海育ちの小物

2個龍頭
     紹興酒用のグラス?  径4.5センチ




北京オリンピック開催前で中国が活気付いていたころ、夫が最後の海外赴任で上海へ。

わたしは高齢の両親がいたのでついては行けず、夫は初めての単身赴任となった。

赴任する前日、父が急逝。

亡くなった人よりも生きている人が大事というかねてよりの家族の意識からも、夫を

予定通り上海へと送り出した。




やや落ち着いた秋に娘と孫と3人で夫の元へ。

大都会の上海、道行く人たちにも日本人と較べて違和感がない。

街は車とバイク、自転車でごった返し、信号無視で危ない。

建ち並ぶビルはモダンで豪華、その数はとうてい東京の比ではなかった。

なにしろ30階以上のビルだけを較べても、日本全体の数より上海に軍配があがる、と。




ある日、雑踏の中、道路を渡っていると向こうからリアカーが。

食器とグラスなどを満載して、大都会には似つかわしくない青年が引いていた。

また舗道では40x50センチくらいの台の上に小さな、しかも熟れすぎた柿を

裕福ではなさそうな、若い夫婦らしき二人連れが売っていた。

熟柿が好きなわたしは多めに買った。

わたしが中国人ではないと思っていてか、にやにやと笑うだけ。

摩れていない人の謝意の表現とみた。




娘たちも日本へ帰ったある日、お食事会に招ばれた。

夫は勤務先からみんなと直接行くので、わたしに独りでくるようにと。

待ち合わせ場所まで地下鉄で一回乗り換えがある。

地図でアンティークと小物の店を探し、2時間の余裕を持って出かけた。

初めての街を、独りで……。

怖かった、心細かった、嫌だった、、、、、でも行けた!!!!




見つけた龍頭のワイングラス。


龍頭


ピューター製で、歯の一本々々まで精巧にできている。


龍頭逆さに


逆さまにすると頭が台になる。

まだ使ったことはないが面白いアイディア。





帰りの空港で見つけたポーチのご紹介。


バッグ


バッグ2


サイズは 17x14 で外側にもポケットが。

柄布は絹で台湾か香港あたりの裕福なマダムが着ているチャイナ服を連想。

孫も一枚チャイナドレスを買ったが、出番はハロゥイーンの日に一度だけ。




なんといっても甘栗が美味しかった!




新燃岳にポンペイを重ねる

ポンペイ本DSC00365
     南イタリア ポンペイの案内書(1979年発行) 当時5000リラ



1987年、かねてより興味のあったポンペイへ。

中学校の社会の教科書にも写真が載っていて、授業そっちのけで想像を逞しくしていた。

人型が石膏で固められている写真には作られた不思議よりも、その場に想いを廻らせて。




ポンペイ地図DSC00366
        ある貴族の館  House of the Vettii



ポンペイ地図部分DSC00367
        左手の石畳の中央から入ると玄関になる。




まず足洗い場があって、そこを歩きながら通れば足が洗われる仕組み。

なるほど、、、と印象的だった。

当時は靴といえばサンダル。 

馬車に乗ってきたとしても足は洗いたかったのだろう。 (綺麗好き!)




足洗い場
        傍には奴隷がタオルを持って待っていたのでしょうね
        
        真上は天井が空いていて、雨が落ちるように





近頃の新燃岳のニュースを見るたびに、わたしはポンペイを重ねてしまう。

紀元62年、ポンペイを巨大な地震が襲った。

それでも町はすぐに前より立派に再建された。

ローマの貴族たちの別荘地であり、裕福な階層の人たちが都市計画に基づいた街を
造り栄えていた。

人口は多いときで2万、常時およそ12、000人が生活。

79年8月24日、町の北西10キロのベスビオス火山が噴火。

このときの火砕流の速度は 100km/h 。

有毒ガスと火砕流で町は埋没、その深さは6メートル近くにも。



発掘地図DSC00370
        本が発行された当時の地図



未発掘の部分が表示されている。

2001年に再度訪れた時は発掘もだいぶ進み、前には見られなかった遺跡も現れ、
街全体の印象がずいぶんと変わっていた。


いまでは8割、発掘が終わっているらしい。





21世紀の現在は、観測、計測も科学的に行われ、情報も正確にもたらされる。

新燃岳の近郊の方、避難生活は大変でしょうが、危険回避はどうぞ怠りなく。

瞬時に埋もれてしまうという、自然の驚異を侮ってはなりません。





アーミッシュ村を訪ねて


     自動車には乗らず現在でも馬車に乗る


1620年にメーフラワー号でアメリカに最初に移住したピルグリム・ファーザーズに
続き、以降たくさんの清教徒たちがアメリカに渡った。

18世紀の初頭、再洗礼派(生後すぐに洗礼を受けず、自分の意思で長じて洗礼を受ける
ことを是とする派)がドイツからアメリカのペンシルヴァニアに先ず定住した。

農耕や牧畜で自給自足の生活をし、今ではアメリカとカナダに20万人の信者が
いるという。

2年前、乏しい知識のまま「アーミッシュ村」を訪ねた。

彼らの生活態度にあまりの衝撃を受け、文明の恩恵に浴している自分、溢れかえる
物たちを捨てきれずに執着している自分に、自戒の意味を込めて感想を書いてみたい。

ペンシルヴァニア州のランカスターにアーミシュ村はあった。

彼らが移住した当時は、どのキリスト教徒も生活スタイルは同じだった。

差が出てきたのはその後、新しい文明を受け入れた人たちと、それまでの生活を
守リ抜いた人たち
とに分かれたからである。

何度も話し合い、電気を引くか、自動車は必要かと協議を重ね、宗教的信条から止めた
のだという。

  例えば、電話が何故不要なのか
   直接会わないと話をしなくなる 
   顔を見ない電話では、言いにくいことでも気軽に言うのではないか
   会わなければ人間関係が疎遠になる

    注:公衆電話はある。掛ける日を相手と決めて、電話の前で待機する

車も電話もなく、電化製品も使わない。

教育は村の中で8年間受ける。 内容はペンシルヴァニア・ドイツ語と英語と算数。

日常会話は現在のドイツ人が聞いても理解できないドイツ古語を使っている。

必要以上の教育を受けると知識が先行し、謙虚さを失い、神への感謝の気持を
失うからだと。

楽器の演奏は個人を引き立て、虚栄心をあおるので許可されず、歌は賛美歌様の
ものを斉唱するだけ。

衣服にも制約があり、避妊もご法度。

それでも自由はある。

16歳に達すると村に残るか、出て行くかの選択は本人に任される。

お試し期間中、箍(たが)が外れたように自由を満喫し、アルコールやドラッグを
覚えたりする者もいるらしいが、結局は9割の若者が村に残るという。

空気の良い、肥沃な土地で必要な分だけ耕して暮らし、文明と虚飾を嫌う。

  文明の利器を自分たちで取り入れるか否かを判断し、余分なものを削ぎ落とした
  生活は見事である。

  太陽が昇ると起き、日没まで働く。

  読み書き計算ができれば、あとは大人から実践教育を受けながら生きてゆく。

  村の学校で天与の才のある者だけが高等教育を受ければいい。

  村を出て普通の社会の中で暮らすことも構わないが不便なようだ。

  人種は問わないらしいので、そんな生活が出来ると思う人は移住できる。

私たちは大事なものと引替えに便利さを手に入れているのかもしれませんね。




カーメルの夜は絵本の一ページ

セーター


モントレー半島にあるゴルフ場で有名な ペブルビーチ

この近くにある町、カーメル。

何度行っても、いつ行っても美しい、お気に入りの場所である。

ある日、LA から8組のカップルでゴルフ旅行に出かけた。

これだけの人数だと飛行機でも移動車の中でもまるで修学旅行のようなにぎわい。

昼間ゴルフをしない夫人だけで(わずかに、わたしを含む3名)、レンタカーで観光。

そこへは行ったわ、そこは興味はないわね、などと姦しくドライブ。

結局車を停めてそぞろ歩きや、お茶、ランチとショッピングになってしまった。

カーメルのブティックで写真のセーター(コットン)を見つけてゲット。

サイズは L しかなく、体のほうを合わせてゆくことで決着した。

中に着るタートルネックのコットンセーターも、ディスプレイどおり、合わせて
買っておかなくちゃ、と求める。

このクリスマス用のセーターはシーズンだけしか出番はなく、日本で着ると子どもたちに
受ける。

セーターは一生物で、80才になっても着るぞ!!
     だって減価償却を計算すると、そうなりますもの。

ホテルはゴルフがプレイできるようにと、The Lodge at Pebble Beach に。

バスタオルがビーチタオルのように大きく、しかも白人の素敵な若者が何度もタオルの
交換にやってくる。

これはサービスというよりはチップのため?

くつろぎたいホテルで、過剰サービスはや・め・て。


   補足:カーメルはクリスマス前にいくと街が幸せいっぱいのムードに。

      西海岸には海沿いに、いくつも素敵な街があるので、順番に一箇所ずつ
      廻ってみることをお薦め。
      


チェコの操り人形劇にも歴史の背景が

人形劇
    中央の絵 フランチェスカ・スカーラ「カエルの城」


世界の絵本展に行ってきた。

合わせてチェコ共和国のフルジム人形博物館から、家庭用人形劇場8台と人形
170体が時代順に展示されている。(日本初公開)

チェコは長い間、大国の支配下にあり、体制を批判したり風刺するのを人形劇を
通して表現した。

またチェコの言語と民族の伝統を次世代に伝える教育手段としても人形劇を利用
したという。

家庭用人形劇場は父親の手作りの舞台と人形、母親と娘が衣装を縫ったもの。

本を手に入れるのも儘ならず、ましてやテレビもない時代の子供たちへの、大人の
プレゼントでもあったか。

チェコのプラハはゴシック建築の尖塔が多く、「百塔の街」と呼ばれ、中世の
面影が色濃く残っている。

つまり街のいたるところに教会があり、人々は信心深かったに違いない。

教会では音楽会が催され、街を歩いているだけで何十枚ものチラシを手渡される。

さすが偉大な音楽家を輩出、あるいは関係のあった国だけのことはある。 

  参考までに
   スメタナ・ベドゥジッフ(Smetana Bedřich)
   ドヴォルザーク・アントニーン(Dvořák Antonín)
   スーク・ヨセフ(Suk Josef)
   ヤナーチェック・レオシュ(Janáček Leoš)
   フィビフ・ズデネク(Fibich Zdeněk)
   カベラーチュ・ミロスラフ(Kabeláč Miloslav)
   モーツァルト・ヴォルフガンク(Mozart Wofgang)
   ベートーヴェン・フォン・ルヴィック(Beethoven Ludvig Von)

しかし教会がたくさんあろうとも、ユダヤ人を人種差別していた事実を忘れては
ならない。

ヨーロッパの歴史を紐解くときは、部分だけを見ると判断を誤る。
複雑に入り組んだ姻戚関係と血縁を読み取るだけでも大仕事であるが……。

とにかく操り人形のデモンストレーションは楽しかった。



街はみんなで造るもの

ギリシャ エーゲ海の島
      ギリシャ エーゲ海の島 (旅行社のパンフレットより拝借)


街並は時代と共に変化する。

車社会を想定していなかった街の道幅は狭く、現代では不便ともとれるが、
ある意味、風情があるようにも思える。

ギリシャのエーゲ海をクルーズすると写真のように真っ白という印象の島が
点在する。

ペンキは白だけしか使えないという決まりがある街と、屋根だけ別の色が
指定されているところもあるという。

ジャカルタの街も建物はそれぞれであったが、屋根は押し並べてオレンジの
スペイン瓦を使っていた。

都市計画デザイナーという専門職があると聞くが、歴史を越えてきた街はそうそう
簡単に改造はできない。 させてもらえないのが実情。

埋立地に整然とした街を見ると近代的ですっきりするが、雑多な雰囲気の街も
それなりに魅力はある。 よって反論が噴出。

かつてローマが大火災に見舞われたが、あれは皇帝ネロによる意図的な都市計画
だったのではないか、という説もあり興味深い。

歴史的価値のある街並を優先するか、生活者たちの利便性を一番に持ってくる
のか、難しい問題ではある。

簡単にできる美しい街並のモデルは、広告の看板を工夫すること。

イギリスで広告の看板をあまり意識しなかったということは、行政による
なんらかの意志が働いていたのでは?

街ごとに規制を設け、それでもそこに住みたい人は我慢を承知で住めばよい。

街の景観に拘っているところには成熟した社会を感じる。

日本も観光立国を目指すのなら、為政者は大英断を下し、国民も団結して
協力をしなければなりませんわね。



ユダヤ教のハヌカには蝋燭を  

ユダヤ教の蜀台



西洋暦で12月はクリスマスの月。 ユダヤ暦ではキスレブの月。

キスレブの日から8日間、ハヌカ(Hanukkah)というお祝いをし、もちろん
クリスマスを祝ううことはない。しかもキスレブは毎年一定の日付けではない。

ハヌカとは「神殿清めの祭り」、「光の祭り」のことで、別名ハヌキヤ(ハヌカ・
メノラ)ともいわれる。

メノラはローソクを意味し、ハヌカには左右4本のローソクをたて、真ん中に種火
となるシャマシュを置いて全部で9本。

8日間、毎日種火と1本のローソクに火を灯し、8日目に9本全てに火がつくことになる。

クリスマスのにぎやかな明かりに比べれば地味であるが、奥床しさが感じられる。

住宅街などで窓辺にそっと置かれていると、ユダヤ人のお宅なのだと思ったものだ。

もう一つ、ユダヤ人の家だと判じられる印がある。

  玄関ドアの横に、小さな十字のメタルを打ち付けていて、入るときにこの
  クロスに触るのだそうだ。 「早く救世主が現れますように」と。

  ユダヤ人はイエス・キリストを救世主だと認めていないと聞いた。
  

写真は種火が中央ではなく右側にきている。デザインを優先させたのかもしれない。

チェコのモルダウ川縁の小さなアンティーク ショップで見つけ、左右対称にすると
バランスがいいので二つ買い求めた。(右は裏側が見えている) 真鍮製。

実際いつごろの物かは店の人も知らなかったし、それはどうでもよいこと。

出自を明らかにするのも楽しみだが、たとえ昨日完成した物でも気に入れば買う。
  
アンティークだから買うのではなく、気に入ったものが結果としてアンティーク
であっただけのこと。


余談
   チェコでは歴史上ユダヤ人が、ある一区画にしか住めない時代があった。

   プラハに残る中央ヨーロッパ最古のユダヤ人地区、プラハ・ヨーゼフ街に行き、
   大きな衝撃を受ける。 その感覚は帰国した後々まで続き考えさせられた。


差別と貧困が犯罪を招くというが、経済界で成功者を産むこともある。 



南部のダラスは保守的な町

dallas cowboys


ダラスと聞けば ケネディ大統領 を思い浮かべるのはある程度の年齢。

暗殺事件の後、ジャックリーヌ夫人が叫んだ「Oh. No!」が日本でも流行った。

1970年代後半のダラスの街は穏やかな印象で、静かというか、
活気がなかったという表現が合っているかもしれない。

ケネディ暗殺現場に行ってみる。
何度もニュースで見た通りと、その前には狙撃されたビルの窓が。

近くの資料館には模型があり、一行の道順がライトで照らされながら進む。
臨場感あふれ、ビデオを見れば、もうちょっとした事件の通に。

全米でも南部は保守的で、建国当初はニューヨーク辺りから見て、アトランタ
は南部だった。

次第に開拓は進み、西へ西へとアメリカ合衆国は広がってゆく。

アメリカの半分から南は南部と呼ばれ、大農園で財を成していたが、やがて
石油が見つかると、新たな財閥が生まれて力を持った。

財力のある、物言う人たちがダラスには多い。 

WASP(アングロサクソン系白人で、清教徒)を最上位に持って来るアメリカでは、
カトリック教徒のケネディはダラスを意識したに違いない。
遊説に出かけ、例の事件に遭遇した。

ヒューストンからダラスへ越していった友人のフレンが言うには、
「ご近所のご婦人方、ランチに誘ったら、ええ、ありがとう、いつかね、と言うのよ」

結局ランチパーティはしない、外食もしない、南部のセレブはきちんと家で食事を取る。

あいまいな表現で断るのも、 southern hospitality の内に入り、気を遣って
いるのだ。

映画「風と共に去りぬ」で、嫌な相手にも、またどうぞいらして、と挨拶をするように。


余談
 フットボールが盛んな全米で最も話題性があったチームはダラス カウボーイズ。
 チアガールが有名で、大変な難関を突破しなければチアガールにはなれない。

 ガールたちは雑誌「プレイボーイ」のプレイメイトに勝るとも劣らぬ美女揃い。
 世の殿方だけでなく、おばさまも子供も魅入られたものである。

プロフィール

白秋マダム

Author:白秋マダム
 
海外生活17年間の思い出と、
時事雑感、日々の暮しについて
エッセイを書いています。

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